フラッシュ・イット・バック

マサはタイの山奥の精神病院にいた。
そこは壁も床も天井も木の板でできていて「ワニがいるのでこの川では泳げない」と英語で書かれた看板の取り付けられた川の上に立っていた。その晩は、ドラム缶だけで浮いてる木の板の桟橋とボートをつなげるための杭に隣接する手すりだけのテラスで、白人のツーリスト達がビールを飲みながらギターを弾いて「カントリーロード」や「フェイス」等のアメリカの有名なポップソングを歌い、大声をあげ騒いでいたので、その真上の部屋にいるマサはなかなか寝付けなかった。
マサは窓も電灯も無い部屋で、体中に虫除けスプレーを噴射し、緑色をした蚊帳の中で体を横たえながら目をじっと閉じていたが、隙間だらけの木の床から、下のテラスのランタンの光や白人達の早口の叫び声が漏れてきて、白人達が足を踏み鳴らすたびに川の上に浮いているそこは、歌のリズムにあわせて激しく揺れたので、マサはその度に舌打ちをした。マサは瞼の裏でイライラしながら考えていた。
自分はなぜこんなところにいるのか。

最初に思い出せたのは、自分が走るトラックの荷台にのりながら見ていた景色だった。
視界の隅から隅まで埋め尽くす樹木。
その中に沈んだアスファルトの道路。
全ての景色が一瞬にして後方へ遠ざかるが、決して劇的に変化する事が無い、また同じ風景がマサの横に来てちぎれて離れていく。
着ていたシャツが風でバタバタと音を立て、舗装されてない道路脇から砂埃がまい髪の毛に絡みついた。
マサはバックパックを握りしめ荷台の手すりにもたれかかっていた。
ずっと長い時間このトラックに乗っていたような気がしたし、これからもそれと同じぐらい長い時間をこのトラックは走り続けるような気がした。
と、突然トラックが停車し、運転をしていた男が運転席のドアを開け、一言も喋らずに降りた。
そのまま男は道路を横断し、道の脇にはえている木から何かをもいでこちらへやってきた。
それはバナナだった。
男はマサに房から半分ちぎって手渡すと、もう半分を持ち、また一言も喋らず運転席に乗り込んだ。
バナナは手のひらに収まるほど小さくて緑色をしていた。
食べてみると、おいしくもまずくもなく日本で市販されているものより少しだけ甘かった。
トラックはまた動き始めている。目の前の道路はマサの左胸のあたりで焦点を結んでいる。
景色はいつまでたっても変わらないだろう。
マサは食べ終わったバナナの皮を左手で掲げ、それから高く投げた。それは一瞬だけ太陽をさえぎり、そして恐ろしい速さで遠ざかっていった。


                                          

次に思い出せたのは、真夜中にエンジンのついた小さな、けれど縦に長いボートに乗せられ、川を上っている景色だった。
船首にはトラックの運転手とは違う男が、しゃがみながらじっと前を見続けている。
男が何かを呟いてるような気がしたが、激しいモーター音とボートの水を切る音でこちらまでは届かない。
マサは両腕を縛られ、泥のこびりついた船底に仰向けに転がっていた。
夜空には一面に星がばらまかれていて、マサはそんなにたくさんの星を見たのは初めてだったが、
綺麗だ、と思う事もなかったし初めてかそれとも過去にこんなたくさんの星を一度に見た経験があったか、と言う事さえもマサは忘れてしまっていた。
それは星だけに限らず、マサは全ての物から反射した光をただ眼球という受容体に写すだけだった。
マサはおならをした。ブー、という音はモーター音でかき消された。
さっきからボートの床を這っていた蟻がマサの首筋を伝って頬のあたりまで上ってきた。
マサは首を振り頭を床にぶつけ、蟻を潰した。
やがて、ボートを覆っていた音と揺れが治まった。
そして、前方に小屋のようなものが現れた時、今まで一度も振り返らなかった男が始めてこちらを向き、素早く「立て」という動作をした。
マサは首の後ろの部分を支えにし立ち上がった。
男は川岸から突き出た杭にロープでボートをつなぎ、桟橋に向かって、跳んだ。
そして、マサにむかって腕を突き出し、マサが縛られている両手を差し出すと笑いながら縄をとき、手を握りそれにみちびかれてマサも跳んだ。
そこは川に面して突き出しているテラスのような場所で長いテーブルとイスがありマサはそこに座らされた。
そこで、小さな電球に照らされ、天井を這うヤモリの数を数えながら
マサは男が持ってきた、ちくわとキャベツをいためた物と米とマンゴーを食べたのだった。                          



それからいま自分はここにいる、とマサは思った。こうやって過去と今を結んでいけばいい、とマサは思った。面積の無い点でもそれを線で結んでいけば形になり何かが現われる。自分と、例えばあの星を結ぶ線。受容体から出る電気信号と脳を、自分の内部にある混乱した空想と外部の現実を結ぶ線。マサはこの調子で自分が生まれた時から今日までの事を一日一日思い出そうとしたが、
それは下のテラスで騒いでいた白人の女の「イッツ・マイ・ビアー」という叫び声でかき消された。
そしてマサはそれ以上何一つ思い出せずに眠りの中へ落ちていった。                                                   

    

朝、目を覚ましたマサがテラスに降りていくと、まだ飯を食ってる白人が二人と食べ残しの乗った皿が3枚、片付けられずにテーブルの上に載っていた。白人から少し距離を置いてマサが席につくと、きっとタイ人だろう短い黒髪と日に焼けた褐色の肌の背の低い男が、皿と白い食パンを手に現われ、皿をマサの前に置き、食パンをテーブルの上の金属と金属の継ぎ目がわからないほどさび付いたトースターの中にセットし、また奥に消えた。パンが焼きあがる頃、男は今度はポットとティーパックの入ったカップとゆで卵を2個を手に戻ってきて、マサはそれを食べ、飲んだ。マサは食べながらずっと目の前の濁流を見つめていた。
朝食を食べ終わった白人2人は桟橋に出て、ペットボトルのミネラルウォーターを使って歯を磨いている。タイ人の男がそばに寄ってきて白人ではなくアジア人のマサだけに小声で「ユー・ステイ・モア・ワンナイト」と言った。川の脇には「ワニがいるのでこの川では泳げない」と英語で書かれた看板の取り付けられている。                                                



本当にこの川にはワニがいるのだろうか?   


                                      

白人がミネラルウォーターを口に含み、うがいをして水を吐き出す。その瞬間大きな口を開けたワニが川に突き出た白人の頭ごともぎ取っていってしまえばいい。マサは川にしゃがみこむ白人を見つめている。だが、立ち上がった白人には当然頭が付いている。何かジョークを言い、笑いあいながら自分の部屋へ戻っていく白人を見送ると、マサは桟橋まで出て行く。本当にこの川にはワニがいるのだろうか?マサは茶色く濁った水の流れをじっと見つめている。ちぎったトーストを落としてみる。マサは川の方へ身を乗り出す。タイ人の男の「ア」という声が聞こえた。その瞬間マサは飛び込んだ。                                   



川の流れは激しかった。すぐにマサは押され、もまれ、流されていった。
それは移動するトラックから眺めていた恐ろしい速さで遠ざかっているバナナのようだった。
マサは抵抗した。全身の筋肉を全て硬直させ、水面へ上がろうと抵抗した。だがマサにはすぐに上も下もわからなくなった。
目も見えなかったし耳も聞こえなかった。肺の中の空気と入れ替わりに体内に侵入した水がマサをさらに深く沈めた。
ただ体中で押し流される感覚が突出して、拒否の出来ないものとして襲い掛かった。
キラキラと眩暈がして最後の空気が体から離れていった時、
本当にこの川にはワニがいるのだろうか?
                         

                           
マサが泳いだ川にワニはいなかった。
川の流れによりマサと頭の中のワニと星、面積をもたない点はすべて結ばれたのだった。